「成果主義運用の難しさ」 – 明るい成果主義2 –

 さて成果主義、運用の難しさとはなんでしょう?

 まず、考課の問題。人間が人間を評価すること自体が議論の対象になります。仮にそれが是であったとしても、考課基準にバラつきは必ず出てしまいます。絶対数値だけで判断できればいいのですが、逆にそれでは人間が考課する意味がありません。

 次に文化的な背景。敗者復活戦ではありませんが、考課はあくまでも考課期間における考課。人格まで否定されたり、「仕事ができる、できない」の一般的レッテルを恒久的につけられてはたまりません。日本社会ではなかなか失敗に対する寛容と再起が難しいことも事実です。

 三つ目として指摘したい問題が、本人の目標設定能力です。KPI(Key Performance Indicator)と言われる重要指標を自ら設定し、明確な基準をもって達成に向っていくことができる人は、現実問題としてそう多くはいないでしょう。

 上記三つの難しさを解決するのに、大きな影響を与えるのはマネージャの力です。考課者研修があるように、考課基準とその判断を高い品質でさばいていくことができれば、フェアな評価が伴ってきます。二番目の問題も、マネージャが「失敗は永遠ではない」ことを示してあげれば、会社の雰囲気は大きく変わります。三番目の問題も、マネージャが目標設定を助けてあげれば、適正なKPIと、最低押さえなければならない目標と背伸びしたストレッチゴールの両方をバランス良く設定することができます。

 マネージャが成果主義に大きな影響を与えることを示す一例としては、マネージャの異動です。異動関連の会話をするとき、外資系でもよく「ケミストリ、大丈夫?」といった類の会話がなされます。そうです、相性の問題があります。「マネージャとの相性」は、業務においても評価においても大きな要素です。「マネージャが変わったら評価も変わる」、本来ないはずですが、必ずあります。相性の悪いマネージャと仕事をするのは、本人にとって不本意なはず。これは大きなストレスです。

 これを解決する方法は、部下が上司を選べるようにすること。しかしここまでやると業務が成り立たなくなります。そこでこの相性問題を緩和するには、360°評価です。重み付けは考えなければなりませんが、複眼的に見ることによって、偏った考えの上司に不合理な評価をもらうというリスクはかなり軽減します。「明るい成果主義」、「納得感ある成果主義」を目指していきましょう。

 P.S. 2ヶ月未満で退任した防衛省の大臣、どんな成果を残したのでしょうか?やはり日本の政治は世界の最低レベル。コメントを聞いていても腹立たしく、情けない。これだと成果主義も機能しないし、させようがない。キャリアとしては、立派な「大臣経験者」になるわけだし。やっぱり、運用は難しい?

一方、公務員に対する成果主義導入、楽しみです。「形骸化するのでは?」そうかもしれません。ただ、少しでも身を粉にして貢献している人のわずかでも評価されれば嬉しいですね。ぜひ、考課者には、国民を加えてもらいたいです。

「成果主義運用の間違い」 – 明るい成果主義1 –

『職場砂漠』という本を読みました。「働きすぎ時代の悲劇」とあるが、確かに悲劇である。あってはなりません。

 これらの諸問題は現実に存在するし、事実であると思います。一言では解決できない難しい問題です。現にこの本でも解決策が示されているわけではありません。どちらかというと、ジャーナリストとして真実を伝えるというモードで書かれています。

 危険なのは、これらの諸問題が成果主義自体の問題と誤解されることです。成果主義を問題視する書籍が話題となり、また、それを受け入れたくない層というか、これまでの評価制度からの変化に戸惑いを覚える人達に、「やはり成果主義は日本に合わない。」と追い風を送っています。

いつも成果主義そのものが間違いかのごとく叫喚されますが、成果主義はフェアな考え方であり、批判の多くは、その運用の間違いに基づくものです。仕事もしないのに、長年、籍をその会社に置いていただけで高給を貰っていては、低い給与で大きな貢献をしている人に説明がつきません、とても不公平です。

 ここで運用の難しさを述べたいところですが、長くなりますので、次回に譲りたいと思います。

 残念だったことは、この書籍のマーケティングです。インパクトのあるキャッチコピーがないとなかなか読者の目にとまって、買ってもらえないことは理解できますが、「グローバル化とIT化がもたらしたサラリーマンの心の病」と書かれては、成果主義どころかグローバル化とIT化が諸悪の根源のごとくです。

 出版社のマーケティング戦略に乗せられてはいけません。しかし私も中身を読まず、タイトルだけ見ていたら、誤解していたかもしれないところが恐ろしいところです。以前、私も本を出版したとき、自分の考えていたタイトルにはできませんでした。本のタイトルは、編集権の一部で、私が出した出版社では、社長決裁とのことでした。ささやかな抵抗として、日本では関係のない英文タイトルでは、勝手に私が想定していたタイトルで呼んでいます。

 私は「明るい成果主義」を主張したいと思います。

 敗者復活ありのフェアな環境において、貢献した者が報われる世界は理想のはずです。また、失敗に学ぶことは成功体験より学習効率は良いし、自分の弱点を強化して、またチャレンジすればいいのです。生活ができれば、給与が下がってもいいではありませんか。鬱になったり、命を絶つより楽なはずです。

 不向きな職種・職場・企業であれば、辞めて別の職場で頑張ることも正しい選択肢です。もっとも悩んでいるときは、このような発想ができないのは当たり前。日頃から「明るい成果主義」を頭に置いておきましょう。

 次回、成果主義、運用の難しさを補足したいと思います。

「ホワイトカラー・エグゼンプション」 – 時間ベース労働と成果ベース労働の選択と提言 –

日本版ホワイトカラー・エグゼンプションは、以前通常国会への提出が断念されたままである。グローバル競争に対する日本国民の平和ボケ、政府の説明不足、成果主義後進国という事実が如実に表れている事象である。

まず第1点、グローバル競争下において、日本人ホワイトカラーの生産性の低さはよく指摘される事項である。私自身もそれは非常に感じる。

ダラダラした会議、リスクを取らないリスク、時間軸のないビジネス、事象を語るだけで対策が出てこない管理職、イニシアティブの弱いリーダー。海外で会議に参加すると、何か問題があった場合「お前はどうしたい?(どのような対策を何時までに取るのか?)」と必ず聞かれる。「そこのところはよく慎重に検討して....」なんて答えは答えとして認めてもらえない。もちろん個人レベルの比較ではないので、一概にコメントできないが、同意していただけるグローバル・プレーヤーは沢山いると思う。ビジネスを日本という枠にとらわれず考えていくとき、生産性の高い連中と戦っていかなければならない。その時意識しなければならないのはスピードと成果の質である。必要とした時間ではない。日本版ホワイトカラー・エグゼンプションは時間軸を伴った成果に目を向ける絶好のチャンスであったと思う。残業代削減のための悪法だと考えるのは、曲がった見方である。

例えば、ホワイトカラーだけでなく製造ラインにおいても生産性を謳えないわけではない。1分間に5個製造するラインであれば、1時間300個を目標成果とすればいいのである。成果物ベースで評価するとすれば、それより早く終わっても、遅く追加の時間がかかっても給与は同じでよい。早く終わった分には、生産性が高かったということで、特別手当をつけるぐらいの勢いが欲しい。この適用は全ての業務、職種ではなく、もちろん警備員のような、存在すること自体が付加価値をもたらす業務もある。これは対応した時間で評価すべきで、偶発性を伴う「犯人を3人見つけること」を目標成果とするわけにもいかない。

次に2点目として、政府の説明不足、説明下手を指摘したい。まずエグゼンプションという単語を理解できる人がどの程度いるのかを考えて欲しい。米国には「W4フォーム」という人事関連の申請書等があって、私も「そこにはそんな単語があったなあ。」というレベルの記憶しかない。野党からわかりやすい「残業ゼロ代制度」などと表現されて、こちらの方が認知度が高まってしまった。主婦の会話を聞いていても、「あれって残業代を無くす制度だよね。」と真剣に会話されていて、あきれんばかりである。生活費(生活残業費?)が削られると主婦にとっては一大事、当然国民は反対モードになる。  過労死問題も議論されているが、それは残業代を支払っても同じ問題が残るはずであるし、そもそも自己管理が現代のビジネスパーソンの基本である。逆に家庭や趣味重視のライフスタイルが有っても良い。

それでは今後日本でどのように成果型の働き方を推進していけばいいのだろうか?

私からの提案としては、「本人の合意とコミットメント」を主軸に適用していけばよいと思う。

勤務形態にエリア限定社員があるように、時間をベースに考えた賃金か成果をベースに考えた賃金かを本人に選択させるのである。当然、目標達成された場合の成果賃金は時間型より高く設定すべきである。まあこのあたりも企業の戦略的人事の1つであるが、コミットメントを高く評価しないと、みんなコミットメントしなくなってしまう。また、もう1つの試練になるのは、「評価の仕方」である。成果をどのように評価するか。我々はまだまだ下手くそである。KPI(Key Performance Indicator)を設定し、数値で評価できる項目は客観的に把握し、納得感のある評価を行っていかないと問題が残る。  レベルの低い国会でノロノロしているうちに、よその国はまた一歩生産性をあげていく。というより、生産性で差をつけられて困るのは、『フラット化する世界』にあるように国家ではなく個人なのだ!